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自己主張2 [【日常】]

「加害者であることについて」書こうと思っていたけれど、よくまとまりません。
心の中をだだ漏れさせただけでまとまらない文章だから意味もよく分からないと思います。

どういうことが「まとも」とか「矯正」とかいうことになるのか人によるので微妙ですが、仮に、「私の正義」と「まともであること」が同義であった場合、私は自分が加害者であることに耐えられないのではないかな、と思います。これまた身勝手な話なのですが。
これに耐えて生きていかなくては行けないということは、死刑よりもよっぽど辛いのではないかと思うのです。私の思う「まとも」である場合の話。

それが罰を受けるということで、甘んじて受け入れましょう、というほど悟った人になったなら、「書きたい人」になってはいないように思うし、「矯正」=「悟りを開く」ではないのだろうから、そういう方向で矯正されたわけではないと思うのです。
あくまで社会生活を人並みに営むことの出来る精神性というか、そういうものを培ったんでしょうけれど。だとしたらますます、やっぱりそれでも生きたいと思うというのが生物学的なところなのかなんなのかちょっと不思議だなあ、と感じていて、だからといって「死ねばいい」とか思っているわけではなく…

というところで結局ぐるぐるめぐっています。

私は10代も半ばになれば物事の善悪なんてついていますから、少年法は無くせばいいと思っています。「昔ヤンチャしてた」とか若い頃の悪行を「ヤンチャ」という言葉で済ます人のケツに蹴り入れてやりたいと思うくらい。その内容が犯罪じゃなくてもヤンチャという言葉が醸し出すヤンキー感が嫌いなんですね。ヤンキーが嫌いだから。

何の話だ。ヤンキーが嫌いな話になってしまった。

加害者の心情を考えるということだと、さだまさしの『償い』を思い出すのですが、なんかそれとも違うんだよなあ。哀しい過ちというには酷すぎるし。哀しい過ちでさえ被害者は何をされても辛い。加害者が生きていても辛いし死んでいても辛さがまぎれるわけではない。
辛さが際立つだけだから、出版したいというまでに至った心情に関して理解を示すことは出来ても、やはり加害者であるのだから被害者遺族双方の了承無しに出版に踏み切ったのはどうなんでしょう、と思う。

了承があるだけで心証がだいぶ違いますよね。と心証を気にしてしまう辺りがやはり私自身が加害者であることに耐えられないだろうというところなのかもしれない。
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